「どうして私はツイッターに強く依存し、時に激怒していたのか?」【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第9回
ツイッターで「つながる」というとき、その「つながり」とはなんなのか。わたしには今、ツイッターをとおして知りあった、かけがえのない友人や知人が何人かいる。たしかに、きっかけはツイッターである。しかし、そのあとで機会を見つけて、わたしはその人たちと実際に会うことができた。一度でも会うことができた人の印象は、ツイッターだけで交流していたときとはまったく異なる。あるとき、知人の一人と、ツイッターで真っ向から意見が衝突したことがある。しかしその人とわたしは食事をしたことがあった。たった一回だけである。そのときの相手の感じのよさ、わたしへの歓待の心遣い。そのことを想いだすにつけ、ああ、この人は口先だけでこんなことを言ってるんじゃないよなと、しみじみと思わされるわけである。だからわたしはその人と意見が衝突してもブロックはしない。しないというより、できないのだ。またそのうち会いたいな。会って話したいな。そう思えるからである。もしも一度も会ったことのない、あくまでツイッター上だけでやりとりしている相手なら、わたしはその人との関係を切ってしまうだろうと思う。
ツイッターをとおして分断が深まったという言説をしばしば見かける。わたしからすれば、当然のことだろうと思う。一生会うこともない人間を相手に、必死で関係を修復しようとする理由を見いだすことは難しい。人生のなかでなんら具体的な接点を持たない、どこの誰かも分からない人から不快に──そう、意見の中身は重要ではない。快か不快かの問題である──させられたとき、なぜこちらから譲歩しようとか、再考してみようとか思うだろうか。不快なのだからブロックするか、あるいは、あまりにも不快なので、相手に怒りをもって反論するか。そうなるのは自然なことである。相手との関係を維持することには、自分の意見を一時的にせよ保留したり、ときにはやむを得ず撤回や妥協をしたりすることも避けられない。それは言論の自由という概念とは別の、肉体対肉体の関係に関する問題なのである。人づきあいにおける言論の自由。そして、ときに怒りをはらみつつ対峙する相互の肉体。わたしたちはそのはざまにおいて、緊張にさらされる。
私見では、孤立している人がツイッターなどのSNSのみで誰かと「つながった」としても、孤立は孤立のままである。孤立が埋められ、少なくとも「わたしは孤独なのです」と語り始められるようになるためには、孤立から孤独への移行が必要である。孤独を抱えたわたしが、その孤独を誰かに話す。話し相手は、「そうだよね。つらいよね。じつはわたしも、孤独なんだ」と応答してくれる。それは、表情など言葉以外のものを伴った出来事でなければならない。顔だけでも考えてみればよい。どんなに若い人であっても、その人の生きてきた生活の積み重ね、癖、つまりその人の個人史が、その顔には刻まれている。自分の過去を言葉で吐露することだけが、自分をさらすことではない。相手に対して顔を見せるという行為がすでに、自分の来歴を相手にさらしていることである。しかもそちらのほうが言葉よりも雄弁であることがある。顔には表情、それも喜怒哀楽という四文字ではとうてい語り得ない動きの連続があるからだ。